「サソリの毒」に魅せられて

 クルマにお詳しい方なら、「サソリの毒」と聞けばすぐにアバルトを思い浮かべるだろう。

 

 先日、とあるイタリア車ディーラーに伺った際に、ひょんなことから"ABARTH 595 competizione"に試乗した。

 

 試乗車はATだった。当方はAT限定免許しか持っていないので、スポーツカーメーカーのアバルトは意識的に遠ざけていた。

 街中でアバルトのクルマとすれ違う度に、柄の悪いチンクエチェントだとしか思えなかった。今回の595を間近で見ても同感だった。可愛いらしい車体にも関わらず、サソリのエンブレム、4本出しのマフラーにガンメタリックの17インチホイールを召したエクステリアが、アバルトの凶暴性を最初に警告してくれている。

 運転席のドアを開け、インテリアを見た際に、

「え!アバルトにATがあるの!?」

と思わず声が漏れてしまった。

 運転席に座り込むと、バケットシートにがっしりとホールドされた。このカーボンフレームのバケットシートのホールド感は、595 competizioneが持つ只ならぬ凶暴性の2回目の警告だった。

 

 車内を見渡すと、外見によらず広々と感じた。後席も割とゆとりを持って座れそうだ。FIATのチンクエチェントはコンパクトなのに広々とし、かつイタリアの洒落っ気が効いていて良いクルマかもしれない、とベース車の方に想いを馳せた。

 「ぜひエンジンをかけてください。」

 営業マンから鍵を渡された。このご時世にスタートストップ方式のエンジン始動でないことにはもはや驚かなかった。このクルマに乗り込んで…いやこのクルマの外見からして、アバルトの歪さを承知していたからだ。

 鍵を捻ると、けたたましい咆哮が鳴り響き、と同時に車体がブルンと揺れ、ゴロゴロとした振動を身体が感じた。予想していたよりも遥かに大きな音量で、これが最後の警告だった。壊れているのかと心配してしまう程に乾いた音だ。エンジンをかけたままで外へ出てみた。この小さな車体から獰猛なサウンドが鳴り響いていることに疑いさえ覚えた。営業マンが交代で乗り込み、アクセルを踏んで空吹かしを聞かせてくれた。まるでネコ科の肉食獣の威嚇だ。チンクエチェントの車体からここまでの威圧的な音量が発せられるのか、不思議でならなかった。

 

 「よかったら試乗しませんか?」

営業マンが運転席から降りて、そう言った。もともとアバルトに興味が無かったし、どうせならFIATの方に乗りたいとさえ思った。スポーツカーに乗るなら伝統的なワイドアンドローのロングノーズが好みなので、124スパイダーの方がまだ乗ってみたかった。ところが、営業マンのまるで道化師のような、これからとっても楽しいことが起こりますよと言いたげな笑顔にすっと気を許してしまい、試乗くらいならとハンドルを握ることにした。

 

 低いエンジンサウンドが響き渡る中、座席位置やミラー位置をセットした。バケットシートなので着座位置を上下には動かせない。それに背もたれの角度を調整するダイヤルはドアを開けないと手が入らないず、何とも使い勝手が悪い。サイドブレーキを倒し、シフトレバーがないので①のボタンを押す。これでドライブに入っているので、ブレーキから足を離すとクリープしていくはずなのだが、これがなかなかに進まない。操作を間違えたのかと焦り、助手席の営業マンに顔を向けると、

「アクセルを踏んでください。」

冷静な返答が来た。少し緊張していた。3度の警告に怯えていたのかもしれない。それでも恐る恐るアクセルを踏むと、かなり遊びがあった。じんわりと踏み込んでようやく進み出した。徐行中、とにかくエンジン音が鳴っている。ディーラーの敷地内から公道に出ると、混み気味だったので、周りの車に速度を合わせた。走らせているとATになので当然ギアの切り換えが勝手に行われるわけだが、変速ショックがものすごく大きい。運転の下手くそな人のMT車に乗っているよりも酷い。それに足回りが硬いせいか、このクルマはちょっとした段差や凹凸でも、

「今、段差を通りましたよ!!!!!」

と言わんばかりにしっかりと車内に伝えてくる。これは酔うだろうと一瞬左に目をやり、同乗者に同情した。

 

 交差点の赤信号で停止していると、営業マンが左折するように言い、スポーツモードのボタンを押した。

「ここの道でスピードを出しましょう。」

 ステアリングが軽く、剛性感があるせいかスムーズな左折が出来た。そして、車体が道路の車線と平行になった瞬間、アクセルを強めに踏み込むと、乾いた咆哮が高らかに響き渡り、その振動が車体を震わせ、背中がシートに張り付いた。「ヤバイ!」と危険を感じ、メーターパネルを見るとこれが意外にも法定速度をちょっと超えたくらいだった。ギアが上がり、ある程度のスピード域に乗って巡航しているのに、エンジンサウンドは相変わらず鳴り響いている。音と振動によるこの危険な感じが、自然と本能を、というよりも身体を駆け巡る血を沸々と沸き起こらせ、スリルに変わった。

 赤信号でブレーキを踏むと、アクセルと違い、全く遊びがなかった。さすがはブレンボ、ちょこっと踏み込むだけでその役目をしっかり果たす。ギアが下がる度にエンジンサウンドはバボバボ鳴った。

 そして、MTモードに切り替えてみた。青信号に変わると、今度は一気にアクセルを踏む。1速から回転数を限界まで上げ、エキゾーストサウンドを鳴り響かせてから、➕のパドルを引く。5速に到達する頃には、警告だったサウンドに、もはや官能すら感じられるようになっていた。

 

 

 試乗コースを走り終え、ディーラーの敷地内に戻り、所定の場所に停車し、エンジンを切ってクルマから降りた。明け方にナイトクラブから出た時のような周囲の音量差のギャップに苛まれた。一気に緊張の糸が切れ、足がふらついた。胃が少しムカムカする。まさか自分の運転でクルマ酔いをしていたのだ。

 教習所の生徒じゃないのだから、自分の運転で酔うクルマなんてまっぴらだ。確かに走らせていて刺激的ではあったが、スポーツカーなら定番の型がいいし、こんなクルマを日常使いではとても休まらない。体裁を取り繕って御礼を言い、ディーラーで用を済ませ、自分のクルマに乗った。やっぱりマイカーが一番と、静かに伸び伸びと走らせた。

 ところが道中、595 competizioneを運転している時のドライブフィールが呼び起こされる。いやいやあんな乱暴なクルマなんてと自分に言い聞かせるも、身体から離れない。五感が再び刺激を求めるのだ。

 普通の人よりは様々な車種を運転してきたが、こんな感覚に陥ったのは初めてであった。強いて言うなら、ジェットコースターを乗り終えた後の感覚に似ている。初めは不安と緊張で嫌々言いながら並び、いざ乗り終えるとスリルと刺激を求めて、再び列に並び、乗り込む。学生時代には遊園地やテーマパークに行くと回数券なりフリーパスを買い、時間の許す限り、何度も何度も乗ったものだった。

 

  「やられた…。」

思わずそう呟いた。どの段階でだろうか。運転席に座った時か、エンジンをかけた時か、アクセルを踏み込んだ時か、はたまたアバルトのエンブレムを間近で見た時かは分からないが、サソリに刺されていたのだ。麻薬のような毒が身体を駆け巡り、血をたぎらせる。そして再びそれを求め、中毒になる。

 頭では、自分の好みや日常使いからはかなりかけ離れたクルマだと分かっているのに、身体がそれを求めてしまうのだ。

 

 あの営業マンは、優秀な人だ。思い返せばアバルトや595 competizioneの説明らしき説明を一切しなかった。試乗中も、道案内とクルマと関係のない話しかしていない。自動車ディーラーに行くと、一刻も早く商品を売りつけたいのか、つまらないうんちくを延々と垂れ流す営業マンがごまんといる。しかし、アバルトに限って言えば、試乗さえさせれば後はサソリが勝手に毒を注入してくれる。彼はそれを分かっていたのだろう。

 

 サソリの解毒にはしばらく時間がかかりそうだ。